『何もない、』

 

ケイタくんは校舎の三階から飛び降りた。

幸いにも飛び降りた先には植え込みがあって、ケイタくんは桜の樹の枝を突き破って花壇に整えてある低い木の植え込みにお尻からめり込むだけで大事に至るケガはなく済んだ。

しかし、落ちた先には小学一年生の教室があって、それはもう酷い騒ぎっぷりで、その日の内にケイタくんが飛び降りた話は全校生徒にいきわたっていた。

ボクはケイタくんが校長室で彼の母親と出てきたのを見かけた翌日にケイタくんに何故飛び降りたのか聞いてみた。

すると、昨日の騒ぎなんて何でもなかったかのようなさっぱりとした顔で

「二階だと危険じゃなさそうだからな」

と、ケイタくんは言った。

「…そんだけ?」

「そう。」

今度はきっぱりと言った。

「じゃあ、四階でもよかったんじゃないの?」

すると、困ったような顔で

「あれは痛そうだから」

と、自傷気味に笑いながら答えてくれた。

そんなケイタくんの顔を見ていると、ふと、去年の夏の暑かった頃に鳴いていた蝉の声を思い出した。

夏の日射しが目をつんざいて、木々からはどこからともなくミーンミーンという鳴き声が耳から頭の中まで響いてきて、

そのとてつもない音量と蝉の数に自分が何の音を聞いているのかが段々分からなくなってきていた。

そんな時、ケイタくんは話しかけてきた。

最初は話しかけられているかどうか分からなかったが、一瞬、急に、周りの音が、しんと聞こえなくなった気がして、

背中に頭から汗がツーっとつたって寒気が襲い、怖くなって振り返ったらケイタくんがこちらを向いて立っていた。

「アツくないの?」

「何が?」

「そのお茶、湯気出てるよ」

彼は、ボクが真夏の校舎の中庭で熱いお茶を飲んでいることが不思議らしかった。

「昔の人は熱いお茶を飲んで汗をかいて健康的に身体を冷やしてたらしいよ」

「へえ」

ケイタくんは興味なさ気だった。それでなくとも、彼の顔は嫌に整っていて固い仮面のような顔立ちをしており、興味の有無など分からなかった。

「でもね、」

話を続けようとするとケイタくんは目線だけをこちらに向けた。

「僕は暑い日に冷たい飲み物を飲んだり寒い日に暖かい部屋でゆっくりするっていうのは、どこかホッとするんだけども、そのまどろみの中に浸ってしまうのが怖いんだ」

「だから、暑い日は暑いお茶を飲むのか」

「そう、そうなんだ。なんだか生きてるって感じがするんだ」

そう言い終えて、水筒の蓋を閉めながら顔を上げるとケイタくんは顔ごとこちらを向けていた。ケイタくんは珍しい生物を見つけたかのように目を輝かせて

「お前、面白いやつだな」

と笑いながら言った。

そういえば、ケイタくんの笑った顔なんて初めて見たなと思ったが、同時に怖くもなって、その場から全力で逃げた。

ケイタくんの静止の声も振り切って教室まで逃げたが先回りをされていた。

それがケイタくんとの奇妙な出会いだった。

 

 

「イノシシ狩りに行こう」朝の校舎の玄関口で後ろからそう話しかけられた。

「最近近くの農場が荒らされてておじさんが狩猟にいくらしんだ、僕らでおじさんが狩るより先に捕まえよう」

下駄箱の前で靴を前かがみになって脱ぎながら、そう言った。

あまりにケイタくんのその提案が突飛なため面食らって何て返せばいいか分からなかった。

ケイタくんは今年から同じクラスになって頻繁に話すようになったが、こうやって無茶苦茶言うことが多い。

「そんなの危ないでしょ」

下駄箱に靴を入れて上履きに履き替えながら答えた。

すると、ケイタくんのいるところとは違う方から

「なんだ細金!また何か危ないことしよとしてんのか!」

なんて怒鳴りつけたかのような響いた声が聞こえた。体育指導のシノハラだ。

「いやぁ、そんな、先生、危ないことなんてするわけないでしょう」

教師と話すときのケイタくんは妙に爽やかさを魅せつけるようなしゃべり方をする。正直気持ち悪い。

「お前、前に飛び降りたのもそうだが、この間も自分の手のひらをカッターで切りつけたそうじゃないか、そんなやつが信用できると思うか?」

「いや、先生。あれは事故ですよ。図工の時間にたまたま不注意でああなっただけです。保健室でもそう話したじゃないですか」

「そうか、不注意ならお前の注意力散漫だが、わざとなら別の指導もしなきゃあいけない。そのことは覚えておくんだな」

そんな悪態をつきながらシノハラは職員室の方へ歩いていった。

そこで一息ついて、ケイタくんの顔の方を見た。

「でも、危ないことには変わりないじゃないか」

「そうでもないさ」

上履きを履いて、立ち上がりながらケイタくんは言った。ケイタくんは背が高く、彼の言うことには何でも自信が溢れているように見える。

そんな彼の言うことに今までも僕は反対できずにいた。

今回も同じだった。

 

「バカじゃないの」僕達の後ろからリボンちゃんがお昼の配膳を運んでる途中にどついてきた。

リボンちゃんというのは、今年僕達のクラスに転入してきた女の子のことだ。

そのあだ名の通り、頭の両端には大きく派手なリボンを付けていた。

ただ、ポニーテールとかツインテールとかいうのみたいに髪の毛が宙に浮く髪型ではなくただ結んでいるだけという印象だった。

この子はよく事あるごとにケイタくんに絡んでくる。

「お前には関係ないだろ」

「クラスメイトが危ないことしようとしてるんだから止めなきゃいけないでしょ!」

「めんどくさい奴だな」

僕も本音を言えば面倒だと思った。話が長くなるだけで一方通行になることは目に見えていた。

こういう時は、決まって二人が言い合いになって周りのクラスの奴にどうにかしろという視線を送られる。それが嫌でたまらなかった。

「イノシシ狩りなんで出来っこないんだからぁ」

リボンちゃんは頬の辺りと鼻を薄っすらと赤くしながら言ってきた。

僕はリボンちゃんと話したことすらなかったから、この喧嘩が終わるのをただじっと我慢しているつもりだった。しかし、ケイタくんの次の一言は予想しえないものだった。

「じゃあ、一緒に来るか?」

今まで邪険に扱われてたリボンちゃんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして立ち止まった。そして、薄手の生地のスカートを握りしめシワを作りながら「いいの?」と聞いた。

「そうでもしなきゃお前うるさいだろ」

リボンちゃんは怒っていたがどこか嬉しそうだった。そんな二人を尻目にボクはどうしたらいいのか分からなかった。

どうしてケイタくんが彼女を誘ったのか理解できなかった。

無茶をするのには巻き込む人はいないにこしたことはない、というのはケイタくんが昔に言ったことだが、今回はどうだろう。

ボクを何故巻き込むのか聞いたら、お前は無茶をするのに向いてると言われた。

彼女もそうなのだろうか。そんなことを考えながら給食の配膳をした。でも、そんなことは給食を食べてる内に段々どうでもよくなってきた。

ケイタくんは放課後にスクールバスに乗って、しばらく歩いてイノシシが出るという山に向かおうと言った。ボクは乗り気ではなかったが、それとは関係なく時間は過ぎた。

 

「いいんだろうか」スクールバスの搭乗口のステップを上りながらボソッと誰にも聞こえないように呟いた。

ケイタくんがリボンちゃんを誘ったことに対してもそうだけれど、何より朝にシノハラに言われたことが心の中で留まっていたからだ。

わざと無茶をするのはいけないことだろうか、人に迷惑をかけない程度の些細な無茶ならいいのか。

そもそも、自分に無茶なことを仕掛けるというのはおかしなことだろうかなんてことを考えていた。

ケイタくんはどう思って、こんな無茶をしようと考え行動しているんだろう。

バスの一番後ろの席にボクを挟んで二人は座った。ケイタくんはバスの中では寡黙だった。

クラスの中ではケイタくんは明るくおしゃべりに振る舞うことが多かった。教師と話す時もそうだ。

その実、あまりしゃべることは好きではなさそうだった。だから、バスの中で口数の減ったケイタくんを見てボクは少し安心した。

すると、リボンちゃんが話しかけてきた。

「ねぇ、ケイタ全然おとなしいんだけど、何かあったの?」

内緒話のつもりか小声で話しかけてきた。

「あれが普段のケイタくんだよ」

「ふ~ん」

「リボンちゃんは何でケイタくんに絡んでくるの?」

「は?あんたには関係ないでしょ!」

そうぱったりと会話を切って、もう喋らないかと思って外を眺めていたらポツリと「さみしそうだから」と誰かに聞いて欲しそうに強く呟いた。それを聞いてボクもただ一言「うん」と返事をしておいた。

ケイタくんは閉じていた目を急にパッと開けて「そろそろ着く」と言った。着いた先は寂れた住宅街だった。到着先で降りたのも僕らだけだった。人の気配すら動物の気配も感じることが出来ないところだ。

「ここから三十分くらい歩く」

ケイタくんの言葉にボクとリボンちゃんはただ頷いてケイタくんの後ろを金魚のフンみたいにぴったりとくっついて歩いて行った。しばらくして、ケイタくんは顔を僕らに向けた。

「ここだよ」

着いた先は、見上げてもてっぺんが木々で見えず、けもの道と立て看板があるだけだった。

 

山の中は木が音を呑み込んでしまっているのではないかと心配になるくらい静かだった。

それでも時折ある「鹿・猪注意!」とペンキで書かれ、剥がれかけている木の看板や猟師の人が目印にしているという両手でなんとか持てるくらいの大きさの置き石が何とか人の気配を感じさせた。

しかし、それ以外は何かがそこに潜んでいそうで何も見当たらないという光景が延々と続いていて、ただただ不安を煽るばかりだった。

それはリボンちゃんも同じようで、周りを見渡している内に自分がどこにいるか分からなくなったらしく、ケイタくんの背中だけを見るように努めていた。

けもの道を歩いている途中、道を少し外れてケイタくんは地面を見下ろした。

「ほら、ここに罠があるだろ。これに獲物がかかっているかどうか猟師の人は毎日確認しにくるんだ。で、目印があるかどうかは人にも寄るけど、ほら、あそこの樹の枝に赤いビニール紐が巻かれている。ああやって、目印にしているんだ」

どうやら、ケイタくんは置き石を目印に歩いてビニール紐を見つけては罠を確認しようとしているらしい。ケイタくんは地面を指さして、言葉を続けた。

「罠の手前に足あとがある。これは多分鹿の足あとだ。罠に気づいて引き返したんだろう。つまり、この辺りには鹿の通り道になっているから鹿と遭遇するかもな」

ケイタくんは猟を実際にやったことがあるんだろうか。やけに詳しい。それは同時に、不安しかない僕等に安心を与えてくれるものだった。

それから何度か何もかかって罠を見つけては他の仕掛けを探しに行くという作業を繰り返した。そうしている内にケイタくんが訝しげな顔をした。

山の急斜なところにさしかかった辺りだ。罠の手前に力強く地面を蹴ったような足あとがあった。直感的にこれはイノシシの足あとだと僕らは感じた。

イノシシが近くにいる。その予感が糸を千切れる寸前までピンと張ったみたいに僕らを緊張させた。風が生温かかった。

風が吹いて木が左右に揺れて、ザワッという音と葉がピューと風を切る音が反響することもなく耳のそばを通り過ぎていった。その時、後ろの草むらの陰からザッっと何かが横切る音がした。

心臓の動きが早くなっているのが分かる。一瞬で目と舌が乾いて、手が小刻みに揺れて視点が定まらず、呼吸が浅くなった。

「俺が確かめて来る」

ケイタくんはそう言って、すり足になりながら草むらの方へ進んでいった。

ケイタくんが近づき始めた瞬間に何かが止まった気配があった。ケイタくんは足をゆっくりとじっくりと確かめるように近づけて、身体を後ろにのけぞりながら草むらの方を覗きこんだ。

「あ」

ケイタくんはうっかり仕方なく言ってしまったかのように、声を漏らした。何かと思ってボクとリボンちゃんはケイタくんに視線を送った。

ケイタくんは左手をあげ、こっちに来てごらんという風に手招きをした。僕らはなるべく足音をたてないように、ゆっくりと一歩一歩近づいた。そして、草むらを覗きこむ。

「…ウリボウだ」

「ウリボウってイノシシの赤ちゃんってこと?可愛いー」

あぁ、良かった。なんだ赤ん坊か。そう思って、安心して、三人で笑った。そこで、三人同時に笑いが止まった。あれ?それってつまりイノシシが近くにいるってことじゃないか。

皆で一斉に辺りを見渡した。十秒近く沈黙が続いたところで、ケイタくんがかすれた声で

「…いた…」

と。ケイタくんが指差す方を見入るよう注視すると、確かに大きく黒い塊が動いているのが見えた。

「一旦、ここから離れよう」

互いの顔も合わせなかったが、答えはイエスに決まっていた。少しずつ、ほんの少しずつ足を後ろにずらして後ずさっていった。

一メートルも移動していなかったが、その変化を察知したウリボウがピーっと、鳴いた。

血の気がサーと引いた。瞬間、イノシシがこちらを向いて、僕らと目が合った気がした。

「逃げろ!」

ケイタくんがそう声をかけたのを合図にイノシシもこちらに突進してきた。ちらっと、進む道を確かめて、もう一回後ろを振り返ると、黒い塊は大きくなっていた。

一秒も経っていないはずなのに五メートルくらいこちらに近づいてきていた。まだ距離はあるとはいえ十秒も逃げられないと思った。どうしよう。どうすれば。

「みんな!斜面を登るんだ!」

気づいたらボクはそんなことを口走っていた。

 

急斜面ではあったが、斜面に生えてる木に捕まれば登れないこともなかった。急ぎすぎて、地面の湿っているところで転びそうになったが、すぐに持ち直した。ケイタくんが最初に斜面を登り切った。

リボンちゃんはその直ぐ後ろを登っていた。ボクはその後ろ。焦りすぎていて自分が何をしようとしているか分からなかった。ただ、逃げなければいけないという思いだけが足を動かしていた。

もう一回振り返った時には、数メートル前までイノシシは来ていた。イノシシは単純なジャンプ力も高いことを思い出して、諦めが頭の中をよぎった。そんなボクの横を何かが横切って落ちた。

それは、そのままイノシシの頭に直撃した。…置き石だった。斜面の上を見るとケイタくんが息を切らしていた。ケイタくんが置き石をぶん投げてくれていたのだ。

イノシシは気絶したのか、そのままぐったりと地面の上に横になった。それを見て、ボクとリボンちゃんは斜面を少し急ぎながらも、確実に登り切った。そこで僕らもぐったりと地面に崩れ落ちた。

何も喋る気が起こらなかった。それは二人も同じらしかった。

生きているというのが不思議に思えてきて、死というものが全く近くにあるということをまじまじと体感させられた。リボンちゃんは目に涙をためていた。ケイタくんは目を見開き、少し笑っていた。

ボクも涙が出そうで、今にも笑い転げそうだった。でも、それはもう一回イノシシがどうなっているか確認してからでも遅くないと思って、斜面の下を見下ろした。ケイタくんとリボンちゃんも一緒に覗いてきた。

倒れたイノシシの周りを数匹のウリボウが囲んで心配するように不安げに鳴いていた。さっきまでの興奮は一気になくなっていた。その不安げな声に、自分の心まで不安になってきた。

しかし、身体はさっきまでの緊張を思い返させるように熱い血を指先までしっかりと送り込んで脈うっていた。

僕らはケイタくんに促されて帰ることにした。その山道で、一人のおじさんが話しかけてきた。

「おい、お前らこげんなとこで何やってんだ、ん、ケイタか、ケイタもいるじゃないか」

ケイタくんはバッと顔をあげて

「おじさーん」

と手を振って答えた。

ケイタくんは、今まで何事もなかったかのような顔をしていた

ケイタくんが先におじさんのところに駆け寄り、僕らのことを紹介していた。

「お前ら、こんなところでイノシシにでも会ったらどうするんだ」

ボクとリボンちゃんはイノシシの話をされて顔が強張った。声を出すこともままならないでいると、ケイタくんが

「おじさんがきっとイノシシを捕まえてくれてるから今日はイノシシの肉を食べれるに違いないって言って二人を誘ったんだ。おじさん、イノシシは捕まえた?」

「ケイタ、狩猟っていってもなわざわざイノシシを探しに行く必要なんてないからな。じっと釣りみたいに待つのがプロってもんだぞ」

「でも、何か捕まえたんでしょ」

そう言いながらおじさんの手に持たれたこん棒と大きめの包丁数本に目を向けた。

「まあな」

おじさんは僕ら二人とケイタくんを交互に見て、少し考えこんでいた。

僕らは、まさかさっきのイノシシがまた動き出してどこかの罠にでもかかったのかと思い、不安と安堵が同時に足の先から頭のてっぺんにかけてドロリとこみ上げてきた。

おじさんは、決心がついたように自分の太ももを叩き、

「鹿が罠にかかったんだ。お前らもついて来い」

そう言って、返事も待たずに歩き出した。僕たちは疲れきっていた足を引きずるようにしておじさんに着いて行った。その途中でケイタくんは言った。

「もう分かってると思うけど、あれが俺の言ってた猟師のおじさん」

ケイタくんが話しかけてくれたのをきっかけにリボンちゃんもケイタくんに話しかけた。

「ねぇ、罠にかかった鹿をどうするの?」

あんまりに脳天気に無邪気に聞いてきたもんだから、ボクもケイタくんも何て答えればいいのか分からず足を止めた。リボンちゃんはまだキョトンとしていた。

前を歩いていたおじさんもいつの間にか立ち止まって、分厚い包丁の背で肩をトントンと叩きながら低くくぐもりながらもよく通った声で

「殺すんだよ」

と、氷のように尖った物言いをした。

リボンちゃんはまだピンときていなかった。

鹿の足にはバネとワイヤーで出来た仕掛罠が締め付けられていた。僕達を見ると体を斜めに倒して僕達から一刻も早く逃げ出そうとしながらも、顔はしっかりこちらに向けてじっと様子をうかがっていた。

おじさんが刃物類を地面におろし、こん棒だけを持って鹿の前に立った。それからただ、鹿とおじさんは別れを惜しむ恋人達のように目と目を合わせ見つめ合う時間が流れていった。

僕らはそれが神聖な儀式のように見えて見守ることしか出来なかった。

ボクが目をそらしそうになった次の瞬間、おじさんはこん棒を宙に掲げ、鹿は地面を動かない脚で蹴ろうとしていた。

バキッ、という固いもの同士がぶつかって火花が散りそうな音が、鈍く轟いた。

リボンちゃんはその音を聞いて、自分も頭を殴られたかのような顔をしていた。ケイタくんはその様子を睨みつけるように眺めていた。ボクは、どんな顔をしているだろう。

「ねぇ、死んじゃったのかな」

リボンちゃんがそう言うのもよく分かった。鹿は真っ黒な目を開けたままほとんど音も立てず力が抜けたようにその場に倒れこんでいた。その様子は生きているとも死んでいるとも分からなかった。

「気絶してるだけだ」

そう言いながらおじさんはヒモを取り出して鹿の脚と口を縛り始めた。そうして、さっき地面に降ろした包丁を持ってきて鹿の首に確かめるようにあてがった。

そのまま包丁を振り子のように揺らして、グッっと力を入れて鹿の首に刃を刺し込んだ。鹿はその勢いに体全身を脈打つように震わせた。

鹿の脚はその時ピーンと伸びていたが、やがて萎びていくように弛緩させていった。そうして鹿の首元から血が地面に吸われていくのをずっと眺めていた。

不思議と目をそらすことなど出来なかった。その間は全く何も物を考えることが出来ず、光を吸い込む闇のように黒かった目は緑味を帯びて白くなっていった。

「よし、そろそろいいだろう」

そのおじさんの言葉に、はっと夢から覚めたような気分になった。

「しっかり血を抜いてやらねぇと、こいつもただの生ごみになっちまうからな」

おじさんはそう言うと、鹿を罠から外して肩に担いだ。それを尻目にリボンちゃんは「生ごみ…」と複雑な思いを漏らしていた。

山のふもとにあるおじさんの家まではそこまで時間はかからなかった。おじさんは庭の木に鹿の後ろ足を開脚させて吊るした。

昔見たテレビのドキュメンタリーでの手術で、人の腹を電動のメスで力を入れる風でもなくいとも簡単に割いたのを見た。

とてもそんな綺麗なものじゃなかったが、おじさんの手際は良く力を思いっ切り入れて、胸の辺りから股まで一息で皮を割いた。そのままの勢いで近くに用意してあったボウルに心臓と肝臓を入れた。

血が全く出なかったので、何とも現実味の欠けた物体に見えた。目の前で取り出すのを見たのにも関わらず、それが心臓でこれが肝臓と言われても何だか信じられなかった。

内蔵を抜き終わると、後ろ足から皮と肉の境目に包丁の刃を入れて鹿の皮を剥いでいった。意外にもスーと着ぐるみを脱がすように簡単に剥がすことが出来た。

首のところまで剥いで、首を切断し始めた。鹿の首が太かったらしく、おじさんは体重を乗っけて小刻みに首を落とした。

そうして、皮の剥げて首の無くなった鹿を見ると、鹿と言うよりかは鹿の形をした肉というのが的確な表現だと思った。その、どうしようもない現実に、圧倒され続けていて、クラクラと目眩がしてきそうだった。

一度大きく息を吐いて、深く空気を吸い込み、今度は浅く吐いた。そうしてなんとか落ち着けた気がした。

振り返って見ると、リボンちゃんが血の気を引いた顔でボーっと立っていた。ケイタくんはいなかった。

「っだ、大丈夫?」

「…。」

「け、けい、ケイタくんはどこいったの?」

びっくりしてずっと噛んだまま喋っていた。

「あいつは薬と布団を用意しにいったよ、お前が楽しそうに解体を見ている間にな」

楽しそうだった?ボクが?そう、だったん、だろうか。分からない。

「ずっと笑いおって、気持ち悪いったらないぞ」

笑っていたかどうか、自分では全く分からなかった。でも、おじさんから見てそうだということは他の人が見てもきっと笑っていたんだろう。

悩んでる間にケイタくんは戻ってきた。リボンちゃんに気の利いた言葉もかけられず、おじさんの言葉が気がかりになってしまって、何も出来なかった。

ケイタくんはそんなボクを見てどう思ったのか分からないが、「お茶を飲もう」と誘った。

日が落ちて、影が伸びてきて、今から帰るには子どもには一苦労だろうとおじさんの奥さんが心配してくれてボクとケイタくんの家に電話をしてくれた。

ボクのお母さんは言葉の上では迷惑をかけちゃ駄目よとか言っておじさんの家に泊まることに関して肯定的だったが、とても怒っているのが分かった。

それに気づかないふりをして電話を切った。明日の朝に帰るのが憂鬱になりそうだった。

おばさんが淹れてくれたお茶が体を芯から温めてくれてなんだかホッとしたけれど、先のイノシシや鹿のことを思い出していると寒くもないのに体が震えてきた。

怖かったような気もするし、逆に楽しかったような気もする。死を予感したような気もしたが、そのことで生きている自分の肉体を強く感じるような気もした。

そうだ、全ては表裏一体なんだ。全体から細部を深く深く沈み込むように覗いているといつの間にか、全体を広く俯瞰しているようなことがある。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

宇宙は無と呼ばれる空間で飛び交っている原子などが衝突して爆発して消えてを繰り返している内に大きな爆発が起きてそれによって誕生したと言われている。

原子から宇宙が広がり、広大な宇宙から地球のような星が誕生して、そこには様々な生物が混ざり合い更に大きな宇宙のような広がりがある。

細胞の一つ一つ、原子一個の中に宇宙は宿っている。それが、頭で理解するのではなく体が太古の記憶を呼び覚ますようにして一瞬で体の中を駆けて行った。

ケイタくんは持っていた湯のみのお茶を飲み干すと、一区切りつけるようにカタンと音を立てて置いた。

「今日はお疲れ様」

ケイタくんは少し疲れているようだったが、楽しそうだった。

「何となく分かったよ。ボクは無茶をするのに少し向いてるらしい」

そう言うと、ケイタくんは笑ってくれた。

「俺も暑い日に飲む暑いお茶の良さが分かった気がする」

ボクもつられて笑った。

居間の畳の上でそうしてお互いにどうしようもなく笑って、寝っ転がった。畳はひんやりとしていて、そのまま何もする気を失くさせた。

おばさんがリボンちゃんの家に電話し終わるまでここでゆっくりしようと思った。

リボンちゃんの家の電話は繋がらなかった。布団から出てきたリボンちゃんに聞くと、両親は共働きで今日も帰ってくるかどうかよく分からないらしい。

どうやらケイタくんはこのことを知っていたようだ。それと同時に何でケイタくんがリボンちゃんを今日誘ったのかが分かったような気もした。

リボンちゃんはコップの中に入った水を仁王立ち一息でぐいっと飲んで今日のことを振り返り始めた。

「あんたたち、ホント馬鹿で、変なことばっかして、シノハラ先生にでもずっと監視してもらいたいくらいよ」

「それは嫌だなぁ」

とケイタくんは苦笑いしながら言った。そんな悪態をつくリボンちゃんのことを何だかボクもケイタくんも全く憎めずにいた。リボンちゃんはそのまま続けた。

「今日だって、死ぬかと思ったし、二人とも死んじゃうかもって思って心配したけど、あんたたちそんなのお構いなしに進んでいくし、どうしようもないわ」

確かにどうしようもないくらい今日の僕らはバカだった。でも、それは―

「でも…。今日は、いつもクソみたいな学校にいる時なんかより、全然楽しかったから」

ボクとケイタくんはそのリボンちゃんの言葉を聞いて安心した。一呼吸間をおいてケイタくんが

「そろそろ、夕食を食べようか」

と提案した。僕達のお腹はひどく空いていた。

夕飯はさっきさばいていた鹿の肉の入ったシチューを食べた。鹿の肉は牛肉とかよりやわらかい気がした。新鮮な肉だからだろうか。

ゆっくり味わっていると生きてこちらをじっと見ていた鹿の目を思い出した。そのことを考えていると胸の内に何かこみ上げてくるものがあったがそれが何なのか夕飯を食べ終わっても結局分からなかった。

今日はとても疲れたし、お腹いっぱいにご飯を食べて眠いはずなのだけれど全く興奮が冷めなくて眠れなかった。布団の中に入ってもそれは同じだった。それはボク以外の二人もそうだった。

でも、お互いに何も言わずに窓から見える外の星を眺めているだけだった。

 

 

「何もない、」ケイタくんが独り言のように言った。「今日は何もなかったのと同じだ」

そう切り出した。

「…どういうこと?」

今日のことが強烈な印象に残るようなことだったことは間違いないはずなのに、そう言い出すケイタくんが不思議でたまらなかった。リボンちゃんも意味が分からなかったようだ。

「こうして、色々な経験をして、動物が生きていたり、死んでしまったり、殺したりして、それを食べたりもしているってことは凄い怖かった」

ケイタくんは視線を僕らに向けずにずっと夜空の星を眺めながらしゃべり続ける。

「でも、今日見たイノシシが死んでしまったように、僕らもいつか今日のこと何てなかったかのように死んで灰になって消えてしまう。それは何もなかったのと同じなんだよ」

ケイタくんの顔はずっと空に向けられていてどんな表情をしているのか分からなかった。何より、ケイタくんが言ったように今日のことが何もなかったことになるっていうことが分からなかった。

ボクもケイタくんもリボンちゃんも、今日のことは忘れようにも忘れる術を持ち合わせていない。ケイタくんはそんなボクの考えはすでに見通しているように更に続けて言った。

「今日のことはきっと大人になっても忘れないと思う。でも、今日のことはなかったように明日も同じ日を過ごそう」

何でそんなことを言い始めたんだろう。でも、ケイタくんの声は震えていて、どう返していいか検討がつかなかった。時間が経てばケイタくんの言うことが分かるかもしれない。そう思って一言だけ返した。

「うん、分かった」

今日のことは何もない、。昨日も明日も同じ日が繰り返されていくだけだ。何もない。何もなかった。

ケイタくんの言ったことを頭の中でずっと繰り返し、星を眺めながら眠りについた。この星も空もボクも何もかも無かった。

ただ、今日はそれだけだった。