2015/9/21/

アスファルト、交通量の多い道路脇、植え込みの横、そこに死んだ猫がいた。
びっくりしてしまって、思わず自転車のブレーキをかけて止まるも
その死体をどうしていいか分からなかった。
いや、本当は分かっていた。
近くの植え込みに移すなり、保健所に連絡して死体を回収してもらえばいいんだと。
そう思い当たるも、死体をなんだか眺めてしまっている内に恐ろしくなってしまった。
猫には薄茶色の縞模様が背中にあった。
身体はすらっと細く、一滴の血もないままに横になっていたので、寝てるだけではとも思ったが
筋肉の弛緩の具合から違うだろうなと思い、それきり僕は胸の内でさえ無言になってしまった。

僕たちは、様々な物を名前で区切らないと「それ」を「それ」と認識出来ない。
「それ」が別の形や用途になってしまうと、途端に自分の頭の中での処理が上手くいかなくなってしまうのだと、思う。
無理に解釈しようとすると既存の既知の組み合わせでしかそれを表現するしかなくなってしまうのが
やるせなくて、とても悲しく、恐ろしく思ってしまう。

2015/8/27/

気持ちがずっと深く深くへ沈み込んだまま浮かび上がってこない日が時々襲ってくる。
水の底、底の土を巻き上げた後、もう、水面には波が立たないくらいに底のまま身動きも出来ない。
なんというか、感情の波が立たないようなこと。これほど焦ることもない。
矛盾しているようだが、焦るのは静けさがくる前の嵐のようなもので、焦っている内になにか楽しげなことでも見つけられたら幸いだ。
どういう時にこの無になってしまうような感情に襲われるか。
物事の進まない時、天候、自己同一性の不在。
非常にやっかいで、悩ましいものだけれど、この感情のまま身体を動かせたら色んなものが純粋に見えてきて、とても良いとも思う。
それは、決して、新鮮に感じるとかではなく、水は水・空気は空気という感じ方があるのだと再確認するようなものなので、
あんまり、そんなことばかり考えても仕様がないのではある。
でも、必要だって思う自分の心が身体の一部にあるらしいのでこうした感情と少しずつ向き合ってみたいとも思う。

2015/8/26/

水の中にいると、意識がジーンと外に外へと広がっていくような気持ちになる。
意識が水に近いものとなって混ざり合う内に、肉体の輪郭が鮮明となって、外に出た意識と肉体とが対話するような形になる。
どうも、それ以外の時は並列とした思考が延々と続くようなので、主体となる意識が消えてしまっているのだと思う。
おーい、お前こんなところにいたのか。って。
水の中から私が呼んでいる気がするんです。